大願成就の意味の捉え方
間違っていませんか?
大願成就という言葉、よく誤解されるんですね。
実は、私も誤解していました。
自分の大きな願いが叶うこと=大願成就 だと思っていたのです。
例えば、高校野球で甲子園へ行きたい!とか、
プロサッカー選手になってレアルマドリードでプレイしたい!とか、
『大願成就』と書かれた絵馬の裏側に、そういう願いが書かれています。
しかし、本来の「大願成就」の意味はそうじゃないんですね。
大願とは、世の多くの人が望むこと
みんなの願い。
みんなが「こうなったら良いな」と思うこと。
それが大願です。
大願成就はみんなの願いを叶えること
だから、それに沿った生き方をすれば良い・・そういう考え方もありますよね。
例えばパン屋さんは、昨日と同じパンではなく、昨日よりちょっとおいしいパンを焼く。
又は、まったく別の、とってもおいしくて安く売れるパンを考える。
それが、みんなの願いに沿ったやり方ですよね。
材料費をケチって手間を掛けずに儲かるパンを開発すれば、自分の願いは叶います。
が、それは大願ではありませんので、どこかで限界が来るかも知れません。
どんな人も、世の中をより良くする事に貢献する方法はあると思うんです。
毎朝、道を掃いてくれるおばあちゃんが、それを教えてくれています。
大願は、そこにもここにも落ちています。
うまく見つけて、うまく成就出来ると良いですね。
★この四字熟語の意味は★
大願成就(たいがんじょうじゅ)とは
大きな願い(みんなの願い)が実現されること。
神仏に願ったことが、かなえられること。
「大願」は大きな願いのこと。
「成就」は望んだことが望んだ通りになること。
「だいがんじょうじゅ」とも読みます。
【説】もともとは人々を救おうとする仏の誓願を意味する仏教語です。
願い事は人それぞれ
恋愛成就、商売繁盛など、どんな人も願い事の1つや2つはあるものです。
苦しいときの神頼みとして、願ったりつぶやいたりします。
自分で努力しながらも、さらに運の流れが良くなるように神様にお祈りします。
ご利益は、善行のご褒美として仏様が叶えてくださるものです。
したがって一度にたくさんのことを願うことは好ましくありません。
欲張った願いは叶えられる可能性を失います。
祈願は具体的にできるだけ的を絞るのが原則です。
たくさんのことを一度に願うことはおすすめできません。
祈願を簡潔明瞭な文字に置き換えようとするのは、的を絞るためです。
適当な言葉が見つからない場合や
祈りの内容を他人に知られたくない場合、
「心願成就」の言葉に置き換えます。
大願成就とは・・・みんなの大きな願いが叶うこと
間違った願掛けをしていませんか?
「これを持っていれば~になる」などの願掛けグッズがどこに行っても販売されています。
しかし、これらは願掛けというより持っているだけで幸せになれるという売り文句に言われるように、「おまじない」といった方が正確でしょう。
願掛けの方法とは
神仏にも「お願い聞いてあげたくなる条件」が必要かと思われます。
例えるなら、飛び込みの営業の人が来ていきなり「うちの商品買ってください」と言われても「この人何言ってるの?」となるのが普通です。
<どのように願掛けをしたらよいか>
- 身なりに清潔感がある
- 日ごろの努力をしている
- 努力のための自己犠牲(断食など)
自分なりで良いので「感じの良い清潔感」を持ち、そして「真剣に叶えたい」思いをもつこと。
「自分も頑張っているけどあと一押しを押していただきたい」とお願いをするつもりで行く。
「何も絶てるものがない!」のなら自分の時間を人の為に使う、ボランティアなども神様は喜びます。
たくさんの神仏にお願いはNG
あちこちたくさんお願いして歩くのは良くないといわれています。すねる神様もいると言われています。
また、お賽銭の金額の大小は関係ありません。気持ちの問題です。
相性の良い神社・仏閣に願い事する
人と神様にも相性の良し悪しがあります。自分にとって良い方向の叶えてもらいたい願いの得意な神社・仏閣に行きましょう。
ただし良い方向の神様だからといって自分と相性が良いかどうかは行って見なければ何とも言えません。
願掛けに訪れた場所に敬意や神秘性などを感じ「敬う気持ち」に自然となれたらソコには神様がいるかもしれません。
あとがき
今年の夏、久しぶりの中学校の同窓会が故郷で行われました。
会場は地元の神社の隣にある古くからある市民会館。
何十年ぶりかに、隣の神社へお参りに行きました。
神社の境内をスマホで撮り、自宅に帰って画像を見ていたら、ふと、スマホの初期画面にしたくなったのです。
スマホの操作もわからずに適当にいじっていたら、きれいな画像になったではありませんか。
ああ、これは神様が操作してくれたのかな?と思い、神社の境内が私の初期画面になっています。