一味同心の意味~休憩から反乱の相談へ!織田信長と茶道

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今日の四字熟語は
一味同心(いちみどうしん)

一味同心」というのはもともとは、農村で農民が行っていた行事でした。

農作の合間に、畦道に輪を組んで、互いに茶碗をまわしながら茶を飲みます。

初めのうちは農作物の出来具合やあるいは農耕技法についての知恵の出し合いや、あるいは地域全体に起こっている問題を解決するための協議をしていました。

農作の合間の農事相談から反乱の相談へ

ところがこうした庶民の一味同心が、大名たちから農作物などの収奪が激しくなると、一揆の相談に変わっていったのです。

つまり、平和な農事の相談から、物騒な反乱の相談に変わったのです。
“一味同心”の性格がガラリと変わってしまったのですね。

しかし、変えたのは農民自身ではありません。大名たちでした。
農民たちはスキやクワのかわりに刀や槍をもって立ち上がる相談をこの茶飲み話で始めました・・

一味同心という言葉は、人々が仲良くお茶を飲むことなのですが、時が経つにつれ、思わぬ展開へと変化していきます。



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★今日の四字熟語は★

一味同心(いちみどうしん)

同じ目的のために心を一つにすること。
また、同じ目的を実行するために心をひとつにして集まった人たちのことを言います。

「一味」は他の味を交えない一つの味という意から、平等と同一を意味し、
志を同じくするという意から、仲間・同士をいいます
「同心」は志を同じくすること。また、その人々

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『小説蒲生氏郷』(童門冬二著)より

もう一つの一味同心(いちみどうしん)

農村で始まった「一味同心」は、やがて商人の間でも、はやり出す。
それが「茶会」であり、茶道の千利休はそういう場を大名と堺の商人との間につくりだしました。

茶道には、「一味同心」という心得がある。
お茶にも“濃い味”と“薄い味”があり、“濃い味”は皆でまわし飲みをするという。
皆で同じ味をたしなみ、同じ心になれるという。

織田信長が愛した「茶の道」

信長が本格的に茶道具を収集し始めたのは、永禄11年に上洛したときとされています。

<織田信長の「名物狩り」>
信長の「名物狩り」は、手当たりしだいに茶道具を入手するのではなく、信長なりの基準で選んでいました。

信長は、「金や銀、米やお金は十分あるので、唐物や天下の名物を集めよ」と、たくさんの名物といわれる茶道具を入手しました。

茶道具の高まる価値

集められた茶道具は、趣味として終わるのではなく、政治的に大いに利用されました。

価値のある名物を集めた織田信長は、これらを茶会で披露し、まさに織田政権の富と権力を誇示したのです。

また、家臣団の統制にも茶道具は利用されました。
朝廷や世間や地方大名らに織田政権の富と権力を誇示することにも茶道具を利用して、
名物を有することに高いステータス性をもたせ、一国一城に匹敵する価値をつけたのです。

原則、信長は家臣たちに茶会を開くことを禁じていました。
しかし、配下の上から5人は茶会を開く権利を与えられ、このことは最高の名誉とされていました。
ちなみに茶会を開くことを許された秀吉は、涙するほど喜んだそうです。

時代は信長から秀吉と変わり、秀吉の筆頭茶頭に利休が就任した事により、戦国期の茶道(茶器)はピークを向えます。
多くの戦国大名や武将が利休の弟子となり、利休が新たに作り出す茶器の虜になっていきました。

こうして、価値の高まった茶道具でしたが、本能寺の変でいくつかの名器が運命を共にしています。
それ以外の名器の多くは秀吉が受け継ぎ、その後は徳川家などに受け継がれていきました。

そして名器たちは、時を越えて現在にも残されています。
多くは美術館などで見られますが、当時の名器たちは今も輝きを失せることなく人々に愛されています。

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あとがき

みんなでなごやかにしていた茶飲み話が、いつの間にか、会議のような決め事や団結に変化していく。

お茶を飲む行為は、身体に潤いをもたらすと同時に、人々が一緒にお茶を飲むだけで心がひとつになります。

また、その茶道具にも深いつながりがあって、歴史的な壮大な物語となって私たちに語りかけてきます。

休憩のためのお茶が会合へ、会合から反乱の相談へ、お茶飲み話の内容が変わっていきます。
お茶を飲みながら、心がひとつになって行動が生まれます。
さらには、お茶だけでなく茶道具も権力の象徴となっていく歴史物語。

ここまで「一味同心」という言葉が話かけてくださると、感謝しかありません。


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