今日の四字熟語は
脚下照顧(きゃっかしょうこ)
何かを失敗してしまったとき
人間には、「よい自分」と「悪い自分」が同居している。
「よい自分」が「悪い自分」を抑えて生きる暮らしこそ望ましい。
何かを失敗してしまったとき、人は自分自身の反省をせず、他の者に責任転嫁をしがちです。
しかし、それでは自身の成長はありません。
★今日の四字熟語は★
脚下照顧(きゃっかしょうこ)
自分の足もとをよく見なさいという意味の四字熟語です。
もともとは禅宗の言葉で、自分の外に理想を求めるのではなく、まずは自分の足元から見直して反省するべきだという意味を持ちます。
これが転じて、他に向かって理屈を言う前に、まず自分の足元を見て反省せよの意で、身近なことに気をつけるべきことをいい、
「他人にあれこれ言う前に自分の足元を見つめ直せ」や、「身近な事に気を向けるべき」という意味になっています。
「脚下を照顧せよ」から仮名を除くことで脚下照顧という表現の仕方が生まれました。
なお、脚下照顧を直訳した、「足もとをよく見て確かめるように、身近な事に気を付けよ。」という意味もあります。
「照顧脚下」ともいいます。
脚下は、足もとを意味し、転じて、本来の自分、自分自身。
照顧は、反省し、よく考える、或いは、よくよく顧みることを意味します。
または日常生活の直視を促す語。
※直視=
1.目をそらさないで、まっすぐに見つめること。
「相手の目を直視する」
2.事実を正しくはっきりと見ること。
「現実を直視する」
<出典>
鎌倉時代の三光国師(孤峰覚明(こほうかくみょう)が禅の極意を説明した。
弟子の1人が「禅の極意とは何ですか」と問うと、
ただ一言「照顧脚下(しょうこきゃっか)」と答えられた。
「自己を問う宗教」である禅の極意を三光国師は「照顧脚下」の一語で見事に言い尽くした。
禅寺では庫裡(くり)の玄関の 1本の柱に、この「照顧脚下」の4文字を書いた板を張りつける習慣になっている。
なぜか柱の下のほうに張りつけるために、一般には「はきものを揃(そろ)えよ」という教えとして受け取られることが多い。
「はきもの」への指示であれば、平仮名で「はきものをそろえましょう」と書けば、小学生にもわかることですが、
三光国師のお言葉「照顧脚下」そのままであるのは、庫裡の玄関で「まず自己を問え」と一喝(いっかつ)を与えているのですね。
現代日本人は、概して外へ向かっての観察は得意ですが、内に向かって自己を観察することは苦手のようです。
佛教に「法句経(ほっくきょう)」というわかり易(やす)い和訓のお経がある。その中に次のような一句がある。
「おのれこそ、おのれのよるべ、おのれを措(お)きて、誰によるべぞ。よくととのえし、おのれにこそ、まことえがたき、よるべをぞ獲(え)ん」と。
つまり「自分を頼りにせよ」と教えています。
我侭(わがまま)勝手な自分では、周りに迷惑を及ぼすだけであり、よく自己調整ができていることが大事だ。
車の調整は毎日でもするが、その車を運転する自分自身の調整を忘れているかもしれない・・。
現代人の盲点といえるでしょう。
あとがき
自己調整のためには、教育が必要。
そして人間の基礎教育としての家庭教育がきわめて重要だと思います。
先日、市バスの中で、こんな光景を見ました。
小学生の男の子が運転手さんに「ありがとう」と元気よくお礼を言って降りていきました。
それ以来、私もその小学生に教えられて、バスを降りるときに「ありがとうございます」と運転手さんにお礼をいうことにしています。
この小学生は、運賃は無料でなく、定期券での乗車でしたが、「ありがとう」の感謝の一言を忘れなかった。だれがこの小学生にこの感謝の尊い行為を教えたのでしょう。小学校の教師なのか、あるいはお母さんだったのか。
うっかりすると見落としかねない小さい行為ですが、学校教育の前に家庭教育であってほしいと心で願いました。