漱石枕流~夏目漱石はなぜ自分の名前に使ったのか

souseki-chinryu

漱石枕流(そうせきちんりゅう)

という言葉

夏目漱石と関係あるの?と、
思いますよね。
そう、関係あるんです。

★今日の四字熟語は★

漱石枕流(そうせきちんりゅう)

【石に漱(くちすす)ぎ流れに枕す】と訓読みされます。
負け惜しみの強いことを言う四字熟語です。
夏目漱石の雅号として有名です。

この四字熟語、自分のペンネームに使うほど、夏目漱石はお気に入りだったのでしょうか。

漱石枕流とは

自分の失敗を認めず、屁理屈(へりくつ)を言って、言い逃れをすること。
負け惜しみが強いことのたとえです。

【説】
中国晋の孫、楚(そんそ)は
「流れに漱(すす)ぎ石に枕す」と
言うべきところを

「石に漱ぎ流れに枕す」と言ってしまい、
友人に誤りを指摘されたが、

「石で漱ぐのは歯を磨くため、
流れを枕にするのは耳を洗うためだ」
と言い逃れたという故事から。

【出典】
『晋書(しんじょ)』・孫楚(そんそ)伝

晋の孫子荊(孫楚)がまだ若かった頃、
厭世し隠遁生活を送りたいと思い、
友人である王武子(王済)に、
「山奥で、石を枕に、清流で口を漱ぐという生活を送りたい」という所を間違えて、
「石で口を漱ぎ、流れを枕にしよう」と言ってしまった。

王武子が「流れを枕に?石で口を漱ぐ?できるものか。」と揶揄した。

すると孫子荊は負けじと「流れを枕にするのは俗世間の賤しい話で穢れた耳を洗いたいからだ。
石で口を漱ぐのは俗世間の賤しいものを食した歯を磨きたいからだ。」といい返した。

孫楚は、伝説の聖人「許由(きょゆう)」が堯(ぎょう)帝から天下を譲られようとした時、
「汚らわしいことを聞いた」と、潁水(えいすい)の畔(ほとり)におもむき、流れで自分の耳を漱(すす)いだという故事を知っていて、
即座に枕流、漱石の言い訳に使ったようです。

<用例>
漱石枕流のごとき言い訳

夏目漱石はどんな人?

夏目漱石(本名は夏目金之助)

8人兄弟の末っ子として生まれ、すぐ古道具屋の里子に出され、さらに翌年は別の家へ養子に出されました。
8歳のときに夏目家に戻りましたが、
たらい回しにされた幼少期は決して幸せなものではありませんでした。

明治23年(1890)、23歳で帝国大学(現在の東京大学)の英文科に入学し、3年後に首席で卒業、愛媛県松山に中学校の英語教師に赴任しますが、四国の松山は東京大学予備門時代の同級生で親友の正岡子規の故郷でした。

漱石は病気療養していた子規を下宿に呼び、
二人はそこで約2ヶ月間同居し、句会を開き、俳句を楽しみ、かけがえのない時間を過ごした。

明治33年(1900)、文部省から英語研究のため2年間の渡英しますが、漱石がイギリスで最初に直面したのは経済的な問題。

国からお金が出される官費留学でしたが、十分でなく、滞在する下宿料や研究に必要な書物の値段が驚くほど高かったのです。

漱石は「お金がない」という不安をかかえながら、節約をして研究に打ち込みましたが、異国での不自由な生活が祟り、
神経衰弱を患ってしまいます。

2年の期限が終わる頃には文部省が
「夏目精神に異常あり、保護して帰朝せらるべし」という旨の電報をイギリスに送りました。

この経験が「余を駆って創作の方面に向かはしめた」とも書いています。

明治36年(1903)に帰国しますが、イギリスで患った神経衰弱は酷くなるばかり。

そんな漱石を見かねて、正岡子規の弟子の高浜虚子は「気分転換になにか書いてみませんか?」と声をかけた。

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明治37年(1904)の頃、夏目家に一匹の黒猫がやって来るようになります。

夏目漱石はその猫を主人公にした小説を書き始め、虚子に見せます。
小説の出来に感心した虚子が仲間内に朗読したところ、好評だ。

『猫伝』というタイトルだったその小説は
『吾輩は猫である』と改められ、雑誌『ホトトギス』に掲載されたところ、人気を博し、12回の連載となり、漱石の作家としての知名度は上がっていったのです。

あとがき

実は漱石の作家人生はたったの10年。
大正5年(1916)に執筆中だった『明暗』を未完のまま、亡くなります。

『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』のようなコミカルな作品の一方で、
『こころ』のような人の心の闇や葛藤を描いた作品も多い漱石作品。

その土台は不遇の幼少期、そしてイギリス留学の貧困生活、漱石の体験全てから成り立っていたのですね。

漱石の悔しかったときに湧き上がる負け惜しみの気持ちが「漱石枕流」の気持ちと合致し、自身の名前に反映されたのかもしれません。


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