★この四字熟語の意味は★
難攻不落(なんこうふらく)
城や要塞を攻撃するのが困難で、たやすく陥落しないこと。
転じて、相手が意志強固で、なかなか承諾しないこと。
比喩的に、簡単にはこちらの思い通りに承知してくれない状態。
「難攻」は攻めにくい、攻めるのが難しい意。
「不落」は陥落しないこと。
語源:守る側に主体があり「不落(攻撃に耐えて落ちないこと)」、
攻める側の言葉として難攻(攻めがたい)を付け加えた四字熟語です。
<例文>
・司法試験という難攻不落の城を地道な努力で打ち破りました。
・兵庫県の姫路城は、美しさと優雅さから白鷺城という名で親しまれていますが、実際は、難攻不落の要塞として設計されていました。
日本で最も堅固で“難攻不落”と呼ばれる城に、豊臣秀吉が天下統一の拠点とした大坂城が上げられます。
1614年の大坂冬の陣では、“真田丸”という出城(本城から少し離れた小さな砦のようなもの)を築き、徳川の大軍を撃退した事でも有名であり、徳川幕府が全国から集めた選りすぐりの20万もの大群を相手にしても、講和(引き分け)まで持ちこんだ点、これが大坂城が戦国最強の城といわれる理由でしょう。
大阪城が難攻不落と言われた理由
豊臣秀吉により15年間にも及び改修が何度も加えられた大坂城は、弱点が見つからないともいえる難攻不落の名城でした。
当時の大阪城の北・西・東側は淀川や大和川などが天然の堀の役割を果たしていて、大坂城を攻め入るためには、地続きになっている南方の平野部しかありません。
敵の兵も、この南の1点に絞られるため、非常に守りやすかったのです。
なぜ最強の大坂城は陥落したのか?
『大坂冬の陣』にて講和を結びましたが、この時にとんでもない条件を豊臣側が飲んでしまいます。
なんと『大坂城の堀の埋め立て』、『二の丸、三の丸などの破壊』などが約束されてしまったのです。
これには『豊臣家の領土安堵』、『淀殿を人質としない』など豊臣方にとっては願ってもない条件があったからです。
しかし、これは徳川家康による戦略であり、大坂城は遠くからでも全貌が確認できる丸裸の城となってしまいます。
当然、城には敵から身を守る術はなく、この翌年1615年に徳川家康は再び大阪城を攻め、大坂城の最強の防備は全て壊されてしまいます。
2回目の徳川家康の侵攻である『大坂夏の陣』で、豊臣軍は城外に打って出ますが、奮闘むなしく戦国最強の大坂城は陥落してしまうのです。
観光名所となっている大阪城とは
現在、年間230万人が訪れると言われる観光名所となっている大阪城は、“秀吉の大阪城”ではなく、豊臣家が滅亡した後に、徳川家が作ったもの。
豊臣時代の大阪城は徳川幕府の新たな城郭工事によって深い地下に埋葬されてしまっていました。
しかし、調査によって実は地中深くに眠っていることが判明。
城内にたった一カ所だけ“秀吉の大坂城”の痕跡があったのです。
現在、大阪市のプロジェクトによって、現在「大阪城豊臣石垣 公開施設」が2019年頃に建設される予定となっています。
豊臣時代の石垣を見られる場所がある!
2019年まで待てない!という人に、実は、下記の意外な場所に豊臣時代の石垣を見ることができます。
■大阪府立 男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)前
■追手門学院小学校 東門横
これらは、建物を建築する際の地中調査で偶然発見された石垣です。
しかも地中から掘り返したあとに、小石に至るまでわざわざあった通りのまま石垣を移築復元したそうです。
現在は、ほとんど知られることのないマイナースポットになっています。
大阪城のイメージ
現在見られる大阪城といえば、白壁に緑の屋根のイメージがあります。
実は現在見られる大阪城は鉄筋コンクリートで造られた復元天守なのですが…何を思ったのか1階から4階まで徳川時代の『白い大阪城』、5階の天守最上階のみ『豊臣時代の黒い大阪城』のハイブリッド建築だったのです!
豊臣時代の大阪城は屏風絵など残っていますが、全て黒壁の大阪城でした。
なぜ黒いのかというと、豊臣秀吉が『金色』が大好きだったからです。『金色』を映えさせるために一番ふさわしい色が、黒色なんですね。
豊臣時代には瓦まで金色あったため『金城』とも呼ばれていたほどです。
あとがき
豊臣秀吉が築いた難攻不落の大坂城を陥落させた戦術は、実は、生前の豊臣秀吉が「自分が大坂城を攻めるなら」と、戯れに語ったものだったというエピソードが残っています。
ここからは少し長くなりますので、物語としてお読みください。
秀吉の大阪城案内
4人の男たちが大坂城の廊下を歩いていた。
「いやはや恐れ入り申しました。」と前田利家が苦笑しながら言えば、それに続いて蒲生氏郷が言った。
「かような一大城郭、殿下でなければ築けませぬな。」
秀吉は、彼ら二人の発言に気をよくして大笑した。
秀吉の右後方にいた白髪交じりの貫禄ある男だけは何も言わない。
彼だけは何も感想を述べず、ただ微笑をたたえて話を聞いていた。徳川家康である。
秀吉は、大名が大坂にやってくるたびに、こうして自ら大坂城内を案内し、その豪華絢爛ぶりを自慢していた。
城内には数多の贅が尽くされ、見た者は決まって度肝を抜かれた。秀吉は、その驚いた顔を見るのが楽しみだった。
ところが、案内をしている最中から、ほとんど感想を述べない男がいる。
誰あろう徳川家康である。家康は時々「おお~」「ほお~」とか漏らすくらいで、特別な感想は何も言わなかった。
それがやはり秀吉としては少し面白くなかった。
部屋に戻ってきた4人はそのまま談笑を始めた。主に大坂城の話である。
「大坂城はの、いかな大軍をもってしても落としゃーせんでよ。摂津一国の兵が城におれば守れる。のう、そうじゃろ?又左(前田利家)?」
「いやはや、ごもっとも。どう攻めたがよいものか…。それがし程度のおつむではおよびもつきませぬな。」
利家はわざと極端にへりくだって言った。利家は秀吉とは長い付き合いから、こういう言い方をすると秀吉は喜ぶのを知っていたのである。
案の定、秀吉は機嫌よさげにからからと快活に笑った。そして、こんなことを言い出した。
「わはは、そうじゃろ。そうじゃろ。されどな、落とす方法はある。聞きたいかー?んー?いかがかな?徳川殿。」
家康はここまでほとんど言葉を発さず、微笑をたたえてその場に座っていたが、この秀吉の問いかけには即座に答えた。
「さすがは殿下。かようなまでの堅固な城でも落とす軍略がござりまするか。」
「わっはっは、あるある。徳川殿ほどの百戦錬磨でも想像がつかぬか。よかろう。特別にここにいる3人には話してつかわすわ。」
と、ご機嫌に任せて城を落とす方法を話し始めた。しかし、それを真剣に記憶にとどめようとしたのは家康だけであった。
大阪城を落とす必勝法
「大坂城を落とすには、まず大軍で長期間包囲することじゃ。包囲して城中の兵糧が尽きるを待つ。」
「城内に疲弊の色が見えたら、一旦和睦じゃ。ただし、条件をつける。」
一旦話をきると、秀吉は得意げな顔で自分の前に座る3人の顔を見回した。みな固唾を呑んで聞いているという風である。この表情が秀吉にとっては心地よかった。
「条件は…堀を埋めることじゃ。そして、実際に堀を埋める時には城壁も壊してしまう。これで城は丸裸。この後、再び攻めれば今度は難なく落ちる。」
秀吉は言い終わると、ニッと歯を見せて笑った。
「どうじゃ?」
利家と氏郷は、その戦術に感心した。
口々に「さすがでござる」という内容のことを言って、秀吉をおだてた。その中で、相変わらず家康だけは「なるほど」といった顔でうんうんうなずいているだけであった。
秀吉の死後、家康は、秀吉の語った戦術をもって大坂城を攻めた。
秀吉の語った戦術をそのまま行った徳川軍が難なくこの巨城を落としたことは言うまでもない。
秀吉は自分の知略を披露して感心されるのを楽しんでいただけなのでしょう。
しかし、家康はそれをしっかり吸収して実践しました。
このストーリー、現代社会にでも十分通用するのではと思いました。
何もないゼロの状態から作戦を練るのは容易いことではありません。
あらゆる資料を集めても、秀吉の作戦に至ることは難しいでしょう。
自分が勝利をつかむために家康は、秀吉の作戦を熟慮し、実践に活かしたのですね。
私も機嫌が良いときは、話さなくていいことも話してしまうなぁ、と反省することしきりでした・・