悪人正機の意味~子どもに教え込む親の劣等感を救うために

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今日の四字熟語は

悪人正機(あくにんしょうき)

子どもを心配することが子どもへの愛情?

子どもを心配することが子どもへの愛情と勘違いしている親がいます。
子どものことが心配で心配でたまりません。

しかし、これは子どもを信用していない証拠です。

親に甘える子どもに「甘えたらいかんぞ」と子どもが言われてしまえば、
子どもは親に心を開くことができません。
また、それは決して親がいう言葉ではありません。

★今日の四字熟語の意味は★

悪人正機(あくにんしょうき)

「悪人正機」とは?

仏教の浄土真宗の思想の一つで、
阿弥陀仏が真っ先に助けたいのは「悪人」であるという教えがあります。

阿弥陀様の本願(約束)は、「悪人」を救うことにあるとしています。
しかしここで、「悪人」をどう解釈するかが重要になります。

親鸞は、我々の行為は下記のように、本質的には「悪」でしかないと考えた。

  1. 自分のやった善行によって往生しようと思うのは疑いの心によるもの
  2. 何を行なうにしろ我々には常に欲望(煩悩)がある
  3. 善いことをしようにも、自らの善悪の基準でしかない

すべての衆生は根源的な「悪人」である。

つまり、
自分は阿弥陀仏が見抜かれたとおり、
一つの善もできない悪人だったと知らされる。

これが「悪人正機」の本質となります
【正機】は、教えを受けるべき正しい人と言う意味です。

しかしこの解釈は、
「欲望のままに悪事を行なっても良い」と誤解されやすいのが難点です。

子どもの気持ちになったことがありますか?

子どもが悪いことをしないようにと思うとき
「親が悲しむから」と思うか
「親に叱られるから」と思うかでは、子どもの心は全く異なります。

「親に叱られるから」と思っている子どもは、
親が叱らないとなれば、やりたい放題にやるでしょう。

親子関係がうまくいかない理由

「親が子に対して劣等感を植え付けた」から、
親子関係がうまくいかなくなってしまったんです。

親自身が劣等感を持っているから、親は気付かずにその劣等感を子供に教え込んでいたのです。
それを子どもへの愛情と勘違いして・・・

「もっと勉強しなさい」
「あなたの将来のためを思って言ってるの」

これを言うのが親の愛情だと思っている人がなんと多いことか・・
これが大きな間違いと知らずにです。

このようなことを言うのは、親が劣等感を持っているからです。
劣等感とは「今の自分では生きていけない」という恐怖心のこと。

「今のままではダメだよ」という、
「愛」という名の恐怖心
子どもにひたすら与え続けて、
恐怖心によって子どもを行動させようとしています。

子どものためにやっている?

「いや、子どものためにやっているんだ」という人がいます。
それなら、恐怖を与えて子どもを従わせたことで、子どもは幸せそうですか?

かけっこの才能のない子供に恐怖を与えて
かけっこの努力をさせても、かけっこは早くなりません。

努力でなんとかなると思うお母さんは、
自分が美人コンテストに出場してください。
美人コンテストの出場者は、全員すごいを努力をしています。

だからお母さんも、同じようにすごい努力をして出場してみてください。
どんなにすごい努力しても、
自分には才能がないからダメだと思いませんか?

これでは悪人正機は親になってしまいます。

子どもの勉強も、全く同じです。
人間は、与えられた能力で生きていくことができるように作られています。

体が丈夫とか、病気しないとか、笑顔が素敵とか、
手先が器用とか、おとなしいとか、何かあるのです。

子どもに自分のやりたいことを、自由にやらせます。
すると子どもは、必ず失敗します。
そのとき親は「信じてるよ」と言ってまた送り出します。

親だけは子どもの味方です

子どもがどんな失敗をしても、
世界中が敵にまわっても
親だけは子どもの味方なんだ、
というのが本当の愛情です。

子どもを信じてください。
あなたを信じているから自由にやってごらん、と子どもに言ってください。
子どもは自分で失敗しながら自分の道をきちんと見つけます。

子どもが引きこもりやニートから抜け出せないのは、今のままではいけないと親が思っているからです。

今のままではいけないと思うということは、
子どもを信じていないからです。

心配そうな顔をしないでください。
子どもを信じて、自分は毎日明るく
楽しそうに暮らしてみてごらん。

(斎藤ひとりさんのお話より抜粋)

あとがき

悪人とは、どんな人を言うのでしょう?
悪いことをしている人を、
神様が慈悲で助けてくれると思うのは思い上がりでしかありません。

「本願ぼこり」という言葉をご存知ですか?

「悪人が救われるというなら、積極的に悪事をなそう」と、行動に出る者がいます。
また、悪人から先に助かる意味を取り違えて、悪事・犯罪を犯しても阿弥陀様が助けてくれると思う者がいます。
これを「本願ぼこり」といいます。

しかし悪いことをいっぱいしていたら、それでは仏様に救ってもらえません。

親鸞はこの事態を憂慮して
「くすりあればとて毒をのむべからず」
(毒を消す薬があるからといって、わざわざ毒を飲む必要はない)と戒めています。


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